ある男と、その観察から始まる内省について。

ミラノの中央を流れる運河は、都市河川とは思えないほどに水が澄んでいる。まばらな雨が降りつづける水面に、大小様々な魚が泳いでいるのが見える。
そこで、緑色の小さいバケツを持った男が釣り竿を垂らしていた。土曜日の昼下がりのことである。満腹の私たちは、それをしばらく眺めていた。その男は糸の先端を投げ、リールで巻きあげる。手元まで来たら、餌が食べられていないことを確認してまた投げる。位置を変えることもせず、まるで機械のようにその単純な動作を繰り返した。
「釣れない釣り」というものは、実際に見るとあまりにも退屈である。実際は10分も経っていないであろう短い時間でさえ、相対性理論について考えを巡らせるほどに長い退屈だった。

「ねえ、釣ったらどうするの?」
痺れを切らした僕が聞くと、馬鹿なことを聞く
んじゃないよとでも言いたげに、男は数本足りていない黒ずんだ歯を見せ、大きく笑いながら言った。
「リリースだよ。」
そう言って、僕に背を向けると、機械的運動に戻った。泳ぐ魚を狙わずに、とにかく遠くに投げて、のんびり回収する。なかなか釣れないが、きっとそれでいいのだ。誰に頼まれたわけでもなければ、釣って食べるわけでもない。それでも、彼は投げる。この行為そのものに彼なりの意味があるのだろう。

こんな事を考えていたら、昔のことを思い出した。少しの間、一緒に住んでいた人に
「もうすぐ帰るよ」そう連絡すると、
「泣いてるけど気にしないで!」と返信が来た。
考えてもみてほしい。同じ部屋で人が泣いているのに気にしないのは育児放棄した親くらいだ。誰だって気になるに決まっている。甘いものとお酒を買って帰ると、確かに泣いたらしい腫れぼったい目元。鼻声でおかえりと言っている。
ビニール袋を渡すと、礼の後にこう言った。
「でもさ、気にしないでって言ったじゃん!」
気にしないわけがないのである。
「ドラマでも観たの?」
僕は聞きながら、そうだと確信していた。
「観てないよ」
あまり聞きすぎるのも良くないかと思った僕は言葉にもならない声を出していた。そんな僕に耐えかねたのか、こう続けた。
「本当に大丈夫だよ。たまに、理由はないけどとりあえず泣いとくか、みたいなことがある。」
僕はしばらく意味がわからなかった。