破竹の勢いでファッション業界の話題を攫っていく、誰にも批判できない男がいる。ジョナサン・アンダーソン。ラグジュアリーとファストの二極化が進んでいくファッション業界の中で、世界最高のメゾンのひとつであるDiorと、その正反対にあるUNIQLOを同時に手掛けている。それに加え、自身のコレクションも毎シーズン発表し続けている。ものすごいバイタリティだと感心する。いつ寝ているんだろうか。その中でも、既存の服には存在しなかったシルエットやシェイプを模索し続けるさまは、結果として現代ファッションを牽引し続けている。彼の今の地位は、ひとえに彼の才能と努力のものであり、忖度だとは思わない。そんな彼は「業界を喜ばせるつもりはない、ファッションの境界を広げるためにいつも挑んでいる」とインタビューで言っている。
しかし、ファッションデザイナーの到達点として、持っていないものがない状態の今の彼のコレクションを「いまいち」と書けるファッション誌など、もはや一つも存在していない。アンダーソンのコレクションがイマイチだというならば、「私はファッション業界で1番評価されているものの良さが分かりません」ということになる。別に優劣があるものじゃないし、好き嫌いは自由に存在していていいはずなのに。
尖ったコレクションで確かに面白くはあるが、全員が「好き!」「綺麗!」となるはずなどない。しかし、いまのメディアに取れる唯一の反抗手段は、積極的な沈黙だけになるだろう。ブランドからの広告出稿にその収入の主な部分を依存していたら仕方ないし、そんな状態でまともな文化批判などできるわけがない。デジタル版を眺めてみれば、ファッション誌には批評の類の文章などなく、ほとんどは既知の情報の整理と並び替え。深読みもリサーチも感じられない、僕でも書けそうな記事がずらり並んでいる。誰も傷付けないぼんやりとした表層の情報だけがすごい早さで流れていく。理解するために複雑な文化的な背景を必要とするものは、大衆のために解釈を加えて記事にしても、どうせ難しくてわからないから書かれない。セレブリティの名前と写真でインプレッションを稼いで、ショールームで聞ける創作背景のストーリーを、規定の文字数目安に添削するだけの人間が、エディターやジャーナリストを名乗っている。金を出してまで読むべき文章はほとんどない。
良い時はきちんと褒め、悪い時はきちんと斬る
文化批評とはそうあるべきだし、正しい批評家がいて、初めて文化は成立する。音楽も、アートも、食も、そうやって発展してきた。
美しさと面白さと新しさはベン図的集合部分を取ることもあるし、そうでないこともある。きちんとそこを切り分けて、文脈の上にデザイナーを置いて評価できるジャーナリストこそ、真のファッション・ジャーナリストだ。
「面白いけど、俺の感性には合わない」と言える独自の感性と気骨を持ち合わせたジャーナリストは、時代に殺されていく。彼らが死ぬということは、必然的に説明くさいデザイナーが増えるということだ。
J. アンダーソンは細部までよく説明する。マチュー・ブラジーもステートメントを出すし、PPピッチョーリもよくストーリーを語る。学校では、どうやって背景をプレゼンするべきかの授業があった。それは、ある種ファッション批評に対しての諦めからきていると私は思う。今の時代の人たちは、言わないと書いてくれないから。マルタン・マルジェラや川久保玲のように、まとまった沈黙に意味を持たせることは、現代においてはとても難しい。
正しい批評のない文化の向かう先は、また別の機会に想像してみるとしよう。
