ミラノの中央を流れる運河は、都市河川とは思えないほどに水が澄んでいる。まばらな雨が降りつづける水面に、大小様々な魚が泳いでいるのが見える。
そこで、緑色の小さいバケツを持った男が釣り竿を垂らしていた。土曜日の昼下がりのことである。満腹の私たちは、それをしばらく眺めていた。その男は糸の先端を投げ、リールで巻きあげる。手元まで来たら、餌が食べられていないことを確認してまた投げる。位置を変えることもせず、まるで機械のようにその単純な動作を繰り返した。
「釣れない釣り」というものは、実際に見るとあまりにも退屈である。実際は10分も経っていないであろう短い時間でさえ、相対性理論について考えを巡らせるほどに長い退屈だった。「ねえ、釣ったらどうするの?」
痺れを切らした僕が聞くと、馬鹿なことを聞く
んじゃないよとでも言いたげに、男は数本足りていない黒ずんだ歯を見せ、大きく笑いながら言った。
「リリースだよ。」
そう言って、僕に背を向けると、機械的運動に戻った。泳ぐ魚を狙わずに、とにかく遠くに投げて、のんびり回収する。なかなか釣れないが、きっとそれでいいのだ。誰に頼まれたわけでもなければ、釣って食べるわけでもない。それでも、彼は投げる。この行為そのものに彼なりの意味があるのだろう。
そう言いかけたが、ここで一度立ち止まりたい。意味は本当になくてはいけないのか?
結論からいえば、きっと意味などなくていいのだと思う。ただし、あなたがそれに耐えられるなら、という条件付きで。
意味についての議論(少なくとも私と友人の間で
)は、しばしば資本主義に帰着する。それは一つの巨大宗教のようなもので、我々の思考プロセスは恐ろしいほどに最適化されている。ハードにこの社会を戦えば戦うほど、生産性のないものを悪と看做してしまちがちだ。休みの日に数ある娯楽の中からあえて本を読む事を選ぶのは、それが資本主義の競争社会の中で意味ありげに見えるからだし、YouTubeのショート動画をスクロールした時間を反省するのは、それが将来に対して無意味だと感じるように洗脳されているからだ。私達は、感じる必要のない罪悪感さえも資本主義によって与えられているといっても過言ではないのかもしれない。とはいえ、実際問題として我々は資本主義社会で生きているわけだし、別のイデオロギーがあるのかと言われたら、今のところない。逆説的にいえば、本を読む事でなんとなく自尊心を高められるという事である。
僕はここで資本主義を批判したいわけではない。休日に生産性のない行為をする男に対して、疑問を抱いた自分自身を諌める気持ちでこの文章を書いている。知らず知らずのうちに資本主義に侵されて、意味のないものに不快感持った自分へ。
そんな自分を観察してみると、意味のないものが畏い(こわい*造語)のかもしれない。僕はいつも、意味という形而上的なものを与えることによって世界を解釈し、捉えやすくしている。僕はもう意味のない世界では生きられない。意味の奴隷、すなわち資本主義の奴隷である。意味がわからないものに出会うたびに、勝手に意味を与えてきた。
こんな事を考えていたら、昔のことを思い出した。少しの間、一緒に住んでいた人に
「もうすぐ帰るよ」そう連絡すると、
「泣いてるけど気にしないで!」と返信が来た。
考えてもみてほしい。同じ部屋で人が泣いているのに気にしないのは育児放棄した親くらいだ。誰だって気になるに決まっている。甘いものとお酒を買って帰ると、確かに泣いたらしい腫れぼったい目元。鼻声でおかえりと言っている。
ビニール袋を渡すと、礼の後にこう言った。
「でもさ、気にしないでって言ったじゃん!」
気にしないわけがないのである。
「ドラマでも観たの?」
僕は聞きながら、そうだと確信していた。
「観てないよ」
あまり聞きすぎるのも良くないかと思った僕は言葉にもならない声を出していた。そんな僕に耐えかねたのか、こう続けた。
「本当に大丈夫だよ。たまに、理由はないけどとりあえず泣いとくか、みたいなことがある。」
僕はしばらく意味がわからなかった。
何かしら意味があるはずだと信じ込んでいる自分と、本当に意味なんてないのかもしれないという自分のせめぎ合いは、僅差で前者が勝つ。人が「意味はない」と言い切る涙にさえ、何かしらの意味を与えて解釈した。そうしないと、僕の認知負荷を超えてしまう。
意味を与えれば、世界はわかりやすくなるが、それは、つまり解釈を固定するということでもある。意味を与えないと生きられないなら、定期的に自分がある事象に対して与えた意味を疑うことを忘れないようにしないといけない。疑った結果、変わらないならそれでも構わないが、考え続けないといけない。やめられるなら是非やめたいが、僕はもう手遅れだ。
もし緑のバケツの男に釣れない釣りをする意味を問うていたならば、きっと「楽しいからね」と笑うだろう。そうなのだ。それだけで十分なことは、往々にしてある。ああ、ファッション、僕もファッションが楽しかったんだ。僕がファッションに意味ばかり求めて、素直に感じたままを言う事を避けるようになったのはいつからだろう。
